高岡漆器の伝統

高岡漆器の歴史は17世紀の始め、加賀藩二代藩主・前田利長公が高岡の町を開いた後、全国各地から職人や商人を集め城下町の基礎を築いたことにあります。

新川郡大場村、現在の富山市大場から高岡指物屋町、のちの桧物屋町(ひものやちょう)に移った大場庄左衛門(おおばしょうざえもん)は江戸初期から仏壇、箪笥(たんす)、長持(ながもち)など指物(さしもの)を作りました。この指物の多くは赤茶色に塗られ、赤物(あかもの)と呼ばれていました。  赤物と呼ばれる漆器の販路は高岡周辺にとどまらず加越能三州一円から越後や北海道にまで広がったといいます。

江戸中期に活躍した塗師屋・八兵衛(ぬしやはちべえ)や辻丹甫(つじたんぽ)は彩蒔絵(いろまきえ)、木彫、堆朱(ついしゅ)、堆黒(ついこく)など漆塗りの技法を生み出し高岡における本格的な工芸漆器の開祖といわれています。 また江戸後期には砺波屋桃造(となみやとうぞう)、板屋小右衛門(いたやこえもん)など木彫彩漆(もくちょうさいしつ)に優れた名工が現れ、高岡御車山にその技を見ることが出来ます。さらに幕末から明治期にかけて勇助塗(ゆうすけぬり)、錆入れ(さびいれ)、螺鈿(らでん)など多彩な技法が生み出され漆器産地としての基礎が築かれていきました。昭和50年9月に国か ら「伝統的工芸品」の指定をうけています。